読書という荒野
見城徹が自己の人生を振り返りながら読書論を展開します。
血なまぐさい読書
読書というのは激しい体験をさせてくれる。特に今の若者は戦争や学生運動の経験がない。誰かの体験を読書を通して追体験する、それもただ読んでおしまいというのでなく、自分の血や肉となるまでに染みこませていくことが"読書という荒野"を突き進んでいくことである。と著者は言います。
「自己検証、自己嫌悪、自己否定がなければ、人間は進歩しない」というフレーズには特に著者の人生観が表れています。
読書を通して取り込んだ体験を自分の問題としてとらえ直し、その問題と葛藤し続けなくては成長はないということです。
これはより適切な表現を常に求め続ける編集者としての姿勢が表れているのでしょう。
死に対する恐怖
著者は言います。死に対する恐怖感は様々な作品や思想を生み出すものである。したがって死によって世界が規定されていると。
少なくとも人間が言葉を獲得した時点で、生きている人間とのコミュニケーションだけでなく、異なる時を生きる者との対話が可能となったのでこれは納得できます。
私は死後が気になりますね(笑)できるならば死にたくない。世界からいなくなるという虚無感から逃れたいのかもしれません。加えて現世の様子を永遠に見ていたいという好奇心もあります。
自分ごときが死を意識するのはまだ早いことかもしれません。
死ぬのが怖いとかいつもくよくよ考えてどうするかと言われたこともあります。
ただ著者は死を常に意識しろというよりかは、「死を迎えるのにお前は現在形で人生を生きられているか」と問いかけているのだと考えます。
だからこそ毎日圧倒的な濃密さで生きなくてはならない。葛藤したのをどこかにぶつける、形として残すことが必要となる。
自分、締めくくり方がどうも苦手みたいです笑
それでもここまで読んでいただきありがとうございました!
ではまた~